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東京未来考:「セレンディピティ」視点で考える都市拡張性についての考察

未来型都市・東京の在り方について「東京」と「限界集落」という地政学上対局する二つの視点から考察してみたい。
 
両者における明白な差は、「人口増減を決定づける住環境システムの優劣」によるものと考えられる。
「住環境システムの優劣」の中身を大まかに細分化すると以下の点が挙げられる。
 
・雇用環境の優劣
・健康福祉環境の優劣
・教育や文化的環境の優劣
 
東京の人口膨張現象は今に始まったことではなく、江戸からの長い歴史を経て作り上げられた都市システムの大きな特徴である。
都市部においては、雇用機会の増加、健康福祉環境の充実、高度教育や多様な文化創造の魅力ある機会が常に産み出されており、疲弊、老朽化し将来の夢を描きづらい地方の若年層を中心とした人口移動が今なお進行している。
日本に限らず世界の主要先進国は、富める大都市と病める地方都市の格差が確実に拡大し続けている。
都市では個別にカスタマイズされたデフォルト(標準的な使用条件を想定して、あらかじめ最適な状態に設定されている)の生活パッケージが次々と生産され続けており、それを支えるため地方都市は肉を削り骨と皮までしゃぶりつくされている状態である。
(搾取され続けた土地は、「限界集落」となり、やがては「消滅集落」となっていく――高度経済成長期、都市の活力を維持・発展させるため、地方の多くの山間部集落が水力発電ダム建設のために消滅、犠牲になったことなど今や誰も気にしていない)
 
現在も地方からの搾取は続いている。
地方が犠牲になっている典型的な例が、原子力発電所の存在であろう。
具体例としては、東日本大震災に伴う津波被害で大事故を起こした東京電力福島第二原子力発電所が記憶に新しい。
首都圏が消費するための危険極まりない発電システム建設を、エネルギーの安定供給のための国策と正当化し、原子力推進派の政治家、学者、関係中央省庁の官僚たちと結託し、一部の地方議員、利権者が札束と引き換えに土地を提供した結果、先祖代々住み続けた土地を失ってしまった無関係な住民たちの悲劇。
 
限界集落」においては、ほとんど選択の余地がない厳しい環境下で限定かつ閉鎖的な生活が細々と営まれている。
一方、「都市」においては、人工的に産み出されるバラエティ豊かなモノ・コトが、常に人間の脳を刺激しドーパミンを溢れさせる生活空間が形成されている。
人工的にカスタマイズされ、適材適所に配置された都市型システムは、常時効率的かつ効果的に機能しており、人々の安定した社会生活を保障しているかの様に見受けられる。
 
ここで、「セレンディピティ(意外性)」というキーファクターを用いて、「都市」と「地方(限界集落)」の差異について考察してみたい。
 
セレンディピティ(意外性)」という切り口で「都市」を眺めてみると、都市生活が予定調和で溢れた陳腐な社会システムに見えてくる。
そして、予てより私が主張してきた都市の脆弱性が一気に露見する。
都市における合理性、効率性、有用性の重視一辺倒がもたらす「危うさ」を感じざるを得ない。
セレンディピティ」視点で解釈を加えた場合、以下のような定義づけができるのではないだろうか。
 
〇「都市」=「限界セレンディピティ
〇「(限界集落を含む)地方」=「無限セレンディピティ

それでは、「都市」と「限界集落」に隠されたポテンシャルを比較してみたい。
 
▼「限界セレンディピティとしての都市」
人工的に創出されたモノ・コトには耐用年数や賞味期限など有限の仕掛けが設定されており、そこで生活を営む人々の行動もある一定の予定調和のループの中で繰り返される。つまり、意外性において常に限界点が存在しており、その限界点を超えることはない環境下で人生の殆どが消費されていく(拡張性が起きづらい人間社会)
 
▼「無限セレンディピティとしての地方(限界集落)」
自然という常に予測不能で有機的な意外性が連続するシステムが主体となっており、人間はその一部過ぎないという立場。生命維持のための安全・安心を獲得するためにコミュニティ全体が常に知恵や工夫を出し合い自然と折り合いをつけていくことで成立する社会システムであり、自然と共存していくことを手段とするため緊張と緩和の連続による刺激ある人生(拡張性に富んだ人間社会)
 
日々進化する科学やテクノロジーによって利便性が高く快適な生活が得られるという幻想にどっぷり浸かった現代人。
科学の発展が未来永劫続くことによって、人類の幸福が持続的にもたらされるという根拠のない科学第一主義的な考え。
一部の権力層に都合の良い国家管理システムの中で、それを疑うことなく生活する危うさ。
一方向で提供される社会システム、社会ルールの中で身も心も委ねること(思考停止状態)が最適な幸福と考えてしまう奴隷的市民。
 
国家が率先して進める都市型管理システムの下、市民を効率的に活用するための好都合な仕掛け(法律、行政、プロパガンダなど)が現在進行形で数多く産み出され続けてきた。
 
科学をはじめとする人間哲学は、自然への畏怖と敬愛を基点として発展してきた。
予測不能な自然現象に対し、人間がいかに折り合いをつけてくかの歴史でもあった。
自然が与えてくれる恵みをありがたく利用させてもらいながら人類は発展してきた。
しかし、いつの頃からか人類はその恩恵を忘れてしまい、自ら自然をコントロールし、支配することに専念するようになってしまった。
その結果、自然の脅威を恐れない科学思想の発展は、人類の想像をはるかに超えるような諸問題を数々引き起こしている。
地球温暖化による自然災害や原発事故による放射能汚染など)
 
 
しかし、状況は変わりつつある。
2011年3月11日14時46分18.1秒のあの日から。
この日を境に都市における市民の意識は確実に変化し始めた。
 
都市は自然から一方的に搾取するシステムとなり、自然に対する畏怖の念をすっかり忘れてしまっている。
そして、自然(地方)がもたらす恵みを、都市社会が独占的に消費する時代に限界が訪れ始めている。
 
昨今、自然の宝庫である「里山中心主義」が改めて見直され始めていることはせめてもの救いであり、我々日本人がまだ自然を完全に冒涜していないことへのひとつの象徴的な現象であろう。
都市においても、「里山中心主義」的思想を主体とした都市開発が望まれる。
山を削り、海を埋め立て、国土の豊かな天然資源を搾取していく開発を今からでもストップし、既にある資源を再生させていく社会システムに大きく舵を切るための意識改革が望まれる。
 
東京で現在推し進められる都市開発を見るにつけ、その計画を最先端で担う一流建築家たちのどれ程が、数世紀先の都市像をイメージできているのか甚だ疑わしい。
 
都市緑化計画や自然エネルギーの活用など鳴り物入りで高らかに謳われた希望の未来構想も今や影を潜め、相も変わらず商業ベースに乗っ取った箱モノ中心の都市開発が東京の至るところで推し進められている。
 
2020年東京五輪を目の前に控え、その開発ピッチは更に加速されている。
五輪大会施設における大会終了後の有効活用策についても、創造力の欠片もない既定路線(レガシーと呼ぶにはほど遠い一部の競技団体のマスターベーション的施設やコンサートなどの商業的活用)に沿った紋切り型の活用例ばかりが並び、改めて行政機関・お役人たちのセンスの無さを嘆くばかりである。
 
首都・東京が持続可能な都市として成長し続け、そこに暮らす市民生命の安全・安心を確保するために何が重要か、ちょっと熟考すれば誰でもすばらしいアイデアを発想することができるだろう。
 
例えば、東京が「防災都市」をひとつのスローガンとして挙げているのであれば、大会施設を都市防災拠点のひとつとして再活用できるようなカタチの設計を組み込むといった発想が出てもおかしくないだろう。また、都市における「里山」的な自然を謳歌できる場所や都心で消費される食料の自給率を高めるための一大農業工場構想など考えればいくらでもアイデアは出てくる。(ex.海上都市・東京の地政学的特徴を活かし、臨海部において陸の「農業工場」と、海の「養殖牧場」をリンクさせた海洋型都市モデルを推進することで、新たな研究・教育機関や雇用機会を創出することも可能だろう)
 
東京はこれまで地方都市に依存し、一方的に搾取し続けてきたエネルギー、食料などをある程度自給自足で賄える自立した都市を目指すべきである。
 
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【参考文献】
・人類社会学者・広井良典千葉大学教授)氏による論文
・「里山資本主義」(角川oneテーマ21/藻谷浩介・NHK広島取材班:著)
・「東京は郊外から消えていく!」(光文社新書三浦展:著)
・「文化としての都市空間」(千倉書房刊/市川宏雄・著)
 
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